夕食の時刻。いつも通りの汁物と、和え物。それと魚。 父が私に早く食べるよう促すので、まず汁物に口をつけた。 食事をすすめるうちに感じる明らかな違和感。 父の眼差しと、汁物の濃い味。そして不安げな母。 それと、お神酒に使われるようなお酒。 「…お父様」 父の視線が痛いものに変わる。 「わたし……な…を……たの…」 言おうとした言葉が掠れ、私は倒れた。 茶碗が手から落ち、割れた。甲高い音が響き渡る。 身体が動かない。力がこもらず、立つどころか満足に言葉を発せない。 耳が遠くなる。母が私を呼んでいるようだが、名前すら聞き取れない。 母が私を支え起こす。耳元で何かを言っているようだが聞こえない。 込み上げてくる吐き気に耐え切れず、私は嘔吐した。 嘔吐を繰り返すたび、床に黒や赤の塊が散らばる。 背中に母の手の感触が伝わる。温かく優しい手だ。 一通り吐き終えたのか、或いは胃の中が空になったのか、嘔吐はおさまった。 虚ろな眼で床に吐いた塊を見る。 赤や黒のそれは一度震えたかと思うと、うぞうぞと動き出した。 その動く塊はこちらへ向かっているらしく、母が後ずさりするのがわかる。 私のつま先に塊が触れた。まるで昆虫の腹のようなぶよぶよした感触。 塊が這い上がってくる。べとべとした感触が脚を上っていく。 塊が私の中に入ってくる。既に感覚が無いので痛みは感じない。 完全に塊が入り終えると、私の意識はそこで途切れた。 ―ヨリシロ そんな言葉が、どこかで聞こえた気がした。 ### 村の男たちが着いた時には、既に手遅れだった。 少女の身体がびくんと痙攣する。 その瞬間、虚ろだった眼に冥い光が灯った。 少女は自力で立ち上がると、顔を上げた。 冥い瞳が男たちを見つめる。まるで獲物を見るような眼で。 少女が懐から何かを取り出す。翡翠色をした小さな笛だ。 口にあて、静かに笛を鳴らした。澄んだ音色が響く。 途端、少女の足元から、天井から、畳の隙間から、数え切れないほどの蟲が這い出てきた。 蜘蛛、蠍、百足、その他諸々の蟲が男たちへと這い寄る。 少女が笛の音を変えた。すると、今までにじみ寄るだけだった蟲が一斉に飛び掛り始めた。 必死に振り払おうとするが、蟲は飛び掛るごとに数を増している。 男たちの抵抗もむなしく、ついに蟲の大軍に埋もれてしまった。 少女の眼前には阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっている。 蟲に刺され、食われ、絶叫を上げている村の男たちは最早見る影も無い。 暫くして、最後の断末魔が途切れた。 少女は無表情に男たちの屍を見つめている。 「…おおぉ」 少女の父親が立ち上がり、一歩一歩近づいていく。 「おぉ…蟲神様…」 少女が父親の方に振り向く。 彼は自らが呼び出した神の名を言う。何度も呪文を唱えるように。 少女は興味がなさそうに父を見ていたが、眉をひそめ父の胸座を掴んだ。 「がっ…な、何を」 「…うるさい」 それだけ呟くと、少女は何かを唱えた。袖口から蟲が父に向かっていく。 蟲は先ほどよりも大きくなっており、おぞましさも生理的嫌悪感も増していた。 父の服に蟲が潜り込む。蟲は容赦なく父の身体を食み、刺し、毒を与えた。 その後ろでは、既に母が蟲の波に飲まれていた。 少女は蟲たちに指示を与え、容赦なく両親を喰らう。 「…ははは」 突然、父が笑い始めた。 「私は成した、成したぞ! 先祖が出来なかった偉業を!人を蟲神にする事をぉッ!」 そして、その父が二度と動く事は無かった。 ### 深い意識の底から、かすかに視界が見える。 既に私は、私ではない。 何時になれば治まるかもわからない。 父が笑っているのが見える。小さな声が途切れ途切れで聞こえてきた。 「わた…は……た…した……せn……できなk…い…を……ひt……にする…とを…」 理解は出来なかった。あまりにも途切れすぎていた。 ―何を、言ってるの…? そんなことを思いながら、私の意識は沈んでいく。 ### うっすらと瞼が開く。春先の少し寒い風が身体を掠める。 「ん……」 少女がむくりと起き上がった。 ―瞬間、息を呑んだ。 一面の赤、紅、真紅、おびただしい量の血の海が周囲に広がっていた。 自分の手を見る。紛れも無い赤が、手にこびりつき、袖口に染みていた。 「う、嘘…いや、嫌、嫌、嫌嫌嫌いや嫌嫌いや嫌いやぁあああああああ!」 叫び、走り出す。 行く当てなんて無い。私が潰してしまった。 助けてくれる人なんていない。私が殺してしまった 誰も、誰もいない。みんな死んでしまった。 わたしが ころしてしまった どれほど走っただろうか。少女は村で一番大きい木の下にいた。 既に顔は涙でぐしゃぐしゃで、小さな嗚咽が漏れている。 「…うぅ」 優しくしてくれた母も、頼りになった父ももういない。 少女はゆっくりとしゃがみこんで、土をかき集める。 「…ごめんなさい、お父様、お母様…村のみんな」 彼女にはただ謝り、弔う事しか出来ない。 村の一人一人の名前を言いながら、謝りながら小さな墓標を作っていく。 すべての墓標を作り終えた頃には、既に日が傾き始めていた。 少女はいつしか泣き止んではいたが、表情は晴れなかった。 村の全員分の墓標を目の前に、少女は黙祷する。 ―ただただ、謝罪の念を込めて。 黙祷を終え、少女は小さな声で呟いた。 「今までありがとう」 瞬間―光が舞い上がった。 光は蝶の形となり、空へと消えていく。 「…さようなら」 その光を背に、少女は歩き出した。 新芽に彩られた森を抜け、その先へ当ても無く。 ただ、自分のために、彼女は歩く。 ―自らが、朽ちぬ身体だと知らずに。